2024年2月28日

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2024年2月28日 (潜在の日) 

 

個体定数を無限個許容する場合。

大きく分けて、二つのレベルに分かれます。

一方は、潜在無限として導入する場合ですが。

従来は、潜在無限なんてゲテモノは、数学や集合論の対象外ということで。

原理上、除外していたのですが。

私が自由集合を数学証明のターゲットにした結果。

自由集合として無限を扱うレベルを無視できないようになったのです。

 

しかるに、哀れな論理猿は私の消滅証明を見ていない。

その結果、自由集合の何たるかが把握できてない。

だから、未だに、

「無限個の個体定数」

と言った場合、自由集合として導入される可能性があることが理解できないの。

まして、況や、一般素人相手解説のWikipediaをや!

これが、Wikipediaの第一階述語論理の説明が駄目だと私が力説してきた所以です。

 

そもそも、名前の

「自由性とは何か?

何であるべきか?」

名前の自由性は、排中律ベースの対角線論法により、その存在が証明され。

「(枠内の)非可算性 vs (枠外の)自由性」

としてみれば、非可算性と同等の権利として並び立つ概念です。

 

21世紀からの数学では、無限に対し、自由集合の可能性を考慮すべきだということ。

具体的に理論Tに対する個体定数の導入考えて御覧。

モデルセマンティクス経由の名前ベースで把握すると。

自由集合そのものですよ。

形式的に、termと定義しても本質は同じ。

アルファベットを決めても駄目。

セマンティクスの話ですから。

 

ならば、自由集合としての無限個の個体定数は許容できるのか?

原理上、無理です。

実用的には、そうやってるのに、何故、駄目なのか?

これをキチンと説明することが難しいのよ。

私だけが出来る神技が干渉するからですが。

前回、これについて蘊蓄を傾けて置きました。

この流れで、自由集合の見本として名前を取り上げましたが。

 

今回は、名前の自由性に関し、最も重要な真理の暴露をしておきます。

この世には(地球上に限定しておくか)

「term vs 名前」

の根本的な相違が分かってない猿が多すぎる。

名前は自由集合で潜在無限。

一方、termは有限個の記号で再帰的に生成される計算可能可算無限。

この程度までは、今までの私の議論により把握できたとして。

 

事は、それほど単純じゃないの。

形式公理体系でのterm記号の導入にはセマンティクスが付随してませんが。

名前の場合には、背景にT(や、そのモデルM(T))が控えていて。

セマンティクスが付随します。

 

注意しておきますが。

こういう初歩的な相違問題すら理解できてなかった猿が多いのよ。

だって、こう指摘された後でも、未だに、真意不明のはず。

この深い意味が分かってない模様。

 

数学で採用する名前の見本としては、例えば、

π、e

のような個体とか、

sin(x)、log(x)

のような関数とかありますが。

名前もtermも、同じく、形式的な記号で表現し。

しかも、公理系で正式採用すれば、名前もtermとして表現されます。

 

では、何が本質的に違うのか?

termで表現されれば、名前も計算可能性の枠に収まるでしょう。

普遍派から見れば、ここが最大の謎のはず。

では自由集合の典型例としての名前の特徴は?

特に、termと比較した場合の相違とは?

グルグルグルグル・・・。

大阪万博のリングみたいな役立たずで、猿脳は負の遺産。

 

公理系でのシェーマみたいに。

自由集合でも、有限個の採用だけで留まれば、再帰的になります。

だから、口が酸っぱくなるほど、term記号は有限個だと言い続けているの。

しかし、

「term vs 名前」

の相違問題は、そのレベルの話じゃない。

哲学じゃあるまいし。

少しは上昇しろよ。

 

というわけで、勿体無いけど、そろそろ、公開しましょうか。

気軽に名前導入と言ってますが。

その背景のセマンティクスをキチンと考慮したことがありますか?

つまり、理論Tに対し。

名前“甲”を設定し、それをtermとして取り込むとは、どういうことか?

 

それはね、名前に付随する背景理論T’があり。

Tで名前“甲”を採用するとは、結果として、理論

T+T’

で証明作業を実施するということなんですよ。

ところが、猿は、往々にして、背景理論T’のことを忘却するの。

名前もT内概念だと思い込むというか、錯覚している。

 

勿論、T内で名前が便宜上の簡略記号として採用されるケースもあります。

この場合は、当然、理論としては

T+T=T

ですが。

都合よく、勝手な名前を採用する場合、殆どは、

T≠T’

のケースが多く、結果論として

T+T’≠T

なのよ。

 

つまり、T+T’は元のTからしたら、真の拡大体系になるの。

で、ここからが最大の難所ですが。

二つの名前“甲”と“乙”を採用した場合。

「甲の背景理論T’ vs 乙の背景理論T”」

が相互に矛盾するケースが有り得るのよ。

その結果、拡大体系

T+T’+T”

は矛盾する破目になる。

 

例えば、よくあるケースは

「AC系の名前とAD系の名前を、同じTに何も考えず導入する。」

こういう場合、そこでの証明は意味がありませんよ。

こういう真理が把握できてないのよ、数学者には。

フェルマーの最終定理の証明は大丈夫なの?

だって、ZFは矛盾だぜ。

私の場合は神ですから、難問「P vs NP」の解決は。

矛盾レベルを超えた、消滅解での解決でしたけど・・・。

 

こういうレベルにまで来ると。

形式体系の有難味が分かってくるでしょう、数学者よ。

論理猿は伊達や酔狂で論理をやってるんじゃないの。

それとも、未だに、有難迷惑と感じるのカモ。

だから駄目なんだよ、オマンらの証明は。

YJ抜きでは、原理上、正しさの保証がない。

脳計測の精度が粗いということ。

 

まして況や、物理猿をや!

何を気軽に、旧量子論やってるのよ。

波動関数はユークリッド空間ベースの理論か?

ちなみに、相対性理論はリーマン空間で数学モデル化してるな。

大統一理論の運命や如何に?

超弦論の9次元て何処の次元?

 

こういう一番大事な論点を考察せず。

「名前 vs term」

の区別すら意識せずに。

無邪気に、

「無限個のterm記号もOK」

なんぞというのが猿。

馬化の見本だな。

 

肝心の論理猿が、こう言ってるのだからねー。

これが、現在の人類の知力限界。

FOPL詐欺が跋扈している現状ですが。

「掛け子、受け子、出し子」

に役割分担して、互いに相手のことは知らず。

魔王に、いいように操られている始末。

さてさて、未来は、どうなることやら。

証拠がWikipediaでの

 

第一階述語論理

 

こういう歴史的証拠を残しておくと。

私と猿との実力差がハッキリするという筋書き。

連中が人なら、私は神だということ。

実は、一昔前の論理学系の教科書は、皆、有限個の記号ベースでterm設定していたのです。

ところが、最近の常識はズレているようで。

いつの間に、こういう破目になったのかね。

 

誰も、これに異を唱えない状況。

というか、オカシイとすら感じないのよ。

これは、人類が退化している証拠になります。

つまり、脳が猿に先祖帰りしつつあるの。

非常に危険な兆候ですね。

これで434町目。

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