2023年12月28日 (有限の日)
形式公理体系におけるシェーマを扱う際。
枠外自由集合の視点から見たのは、私が初めてですよ。
だって、自由集合という概念自体が私のオリジナルなんだから。
従来は、あくまでも、枠内普遍の立場で捉えてきたのですが。
それが無理だと分からせたのが前回の議論です。
土台の集合論レベルで駄目だと分かったでしょう。
Δ理論の活躍の場です。
ここまで把握できたとして。
そもそも、ZFの置換公理ARのシェーマでは
ψ1、ψ2、・・・
と無限に論理式(対応記号)を追加していくわけですが。
この結果、ZF公理系は再帰的になるのかな?
再帰的にはならないでしょうが。
Δ(ZF)は曖昧集合なんだから。
それでも、何とか公理体系として振舞えるのは。
ZFで何かを証明する場合。
そこで使う置換公理の具体例は有限個だからです。
無限個の置換公理を使うことは有り得ません。
それゆえに、シェーマ採用しても公理体系は大丈夫なのですが。
だからと言って、そのシェーマが自由集合にならないわけじゃないの。
一般的にシェーマでの
ψ1、ψ2、・・・
が再帰的になるのは、規則正しく生成可能な場合のみ。
任意閉論理式追加で再帰的になるのは有限個の範囲までです。
こういう方向から見ると、termや公理体系設定の重要性が分かるでしょう。
歴史記念に、今までの私のtermに関する論証の斬新さを強調しておくと。
人生のハイパー論理原理□
公理系のシェーマレベルで自由集合が登場する(ケースがある)。 ┤
(□は適切な数字で置き換えること。
ここの解説記事は膨大な情報量になってきたので。
数字番号の順番をチェックするのが面倒です。
AI程度にやらせれば丁度の仕事だ。)
この導入部から、今回の本論に。
そもそも、一般的に
「無限個の公理追加」
って不可能でしょう。
書き切れないもの。
だからこそ、
「シェーマ」
なんて用語で誤魔化してきたのよ。
こういうのが、私が終始一貫指摘し続けてきた。
「表現可能性」
問題です。
こういう処で重要性が表出するのよ。
では、こういう事態に、どう対処するのか?
それこそが述語論理のコンパクト性ですよ。
「矛盾の視点から見たら、実質有限個の世界観でOK宇宙。」
という内容です。
しかし、それは、矛盾の観点から見たらです。
表現可能性は別儀。
この意味、分かるかな?
第一階述語論理で書いた理論Tで矛盾しているものはいくらでもあるし。
矛盾してなくても、第一階述語論理で書けないものはある。
論理の種類の話じゃないですよ。
古典論理で、2値論理に限定してもです。
これが表現可能性問題。
判ってきたかな、ここの機微というか、秘孔が。
いずれにせよ、置換公理のシェーマは枠内概念の
「compact性」
と密接に関連しています。
矛盾の観点から枠の内外を対比させておくと
「(枠外)自由性+有限の立場 vs (枠内)コンパクト性」
となります。
両者を昇華するのが
「ハイパーコンパクト」
ですが、これに関しては稿を改めて。
この文脈で、淵野を踏み台にして。
ZF+(∞)を再度、取り上げます。
(∞)の定義は復習しておくこと。
ちなみに、(∞)をシェーマとみるかどうかは気分次第。
取り敢えず、無限個の公理と把握してください。
今や自由集合が登場した、この局面で気になるのは、
「ZF+(∞)は枠内体系として許容可能か?」・・・(体系)
実は、この懐疑も大事です。
通常、公理体系と言う場合、formulaの部分集合として。
再帰的に定義可能と想定されます。
だからこそ、論理ベースで機械的な
「証明可能性」
という概念が計算可能の範囲に収まり。
それゆえ、逆に、証明可能の範囲を超えた不完全性定理の価値があるのです。
この前提の下、(体系)はYesかNoか?
term記号の有限性を前提にした御蔭で。
(∞)の具体例は再帰的になっていると解釈できます。
これが把握できた後処理として。
関数合成基準ではなく、自然数導入表現の御利益が出るという筋書き。
何遍も繰り返し確認しておきますが。
可算無限個のtermはOKですが。
可算無限個の個体定数や関数記号は駄目ですよ。
ここでの問題は。
果たして、これがZF({x|})の矛盾証明になるかどうかでした。
これに関しては、すでに、駄目出しをしておきましたが。
今回は、より深い分析をします。
目下の課題は、置換公理シェーマARの自由性ですが。
これを、有限の立場で切り抜けると。
一応、(体系)はYes。
しかしながら、この段階で枠内派が主張できる懐疑は、精々が
「述語論理のコンパクト定理が正しければZF+(∞)は矛盾するのでは?」
のはず。
よって、まず大事なのは、この前提条件
「述語論理のコンパクト定理」・・・(compact)
が正しいのかどうかです。
だって、ZFは(枠内で)矛盾してるのですよ。
私が証明しました。
今や、数学の全ての定理(の証明)を疑うべきなの。
この観点が大事。
しかし、淵野には、というか、全ての数学者達は。
そういう視点で物事を見ることができないの。
アプリオリに(compact)は正しいと信じて生きています。
よって、(compact)の真偽問題を無視している。
というか、未熟で思い及んでいない。
「ZFは第一階述語論理ベースで書けている。
つまり、ZF公理体系は再帰的だ。
ゆえに、無矛盾。」
なんてレベルの妄想で生きているのでは?
フフン、甘いわ。
凄い三段論法もあるものだ。
1段⇒2段
2段⇒3段
と
「非演繹推論」
の歴史的な見本市になっていますよ。
類推の一種だな。
これが猿の知力限界だということ。
今や、(compact)の真偽自体が怪しいの。
この点、どう対処すれば良いのか?
全ての数学者は他人事じゃないでしょう。
枠内猿よ、己の未熟さが身に沁みるだろう。
ガザよりも狭い了見だぜ。
いつまでも、神に頼らずに、目から鱗をとって。
少しは、自分で物事を考える癖をつけなさい。
ここで忘れないように。
私は、こういう記事を公表する必要の無い立場ですよ。
敢えて道草食うのは、猿の知力計測ができるからです。
よって、後に、この論点を深く分析していきますが。
現段階では、(compact)問題は正しいと仮定します。
それでも、取り敢えずは、
「ZFと(∞)が相互矛盾している」
としか主張できないでしょう。
この点を淵野は、どう考えていたのか?
彼の未熟な解説では
「(∞)はZF外だから、ZF矛盾の証明ではない。」
程度の論考に解釈できますね。
しかし、そのレベルでは話にならないということ。
次回は、この点を、より深く分析していきます。
これで428町目。